阪急電車は阪急旅行,新阪急ホテル,阪急梅田 等々を生み出した会社ですそして今や阪神タイガースまでそのグループの一員です。
阪急電鉄株式会社は、阪急梅田と神戸・宝塚・京都を結ぶ私鉄で、阪急阪神ホールディングスの子会社で、阪急阪神東宝グループに属しています。
平均利用者数195万人/日、営業キロ146.6kmに及ぶ、大手私鉄の一つで、阪急旅行,新阪急ホテル,阪急梅田,阪急不動産,阪急高速バスや小林一三
が創業し女性のみで構成される劇団「宝塚歌劇団」もこのグループで、阪神を買収したことで阪神タイガースもこの一員になりました。
この買収の経緯は阪神電気鉄道の資産内容が、梅田駅前など沿線に保有する不動産が取得時の簿価で評価され、500億円にも達する大きな含み益を内包しており、
また阪神タイガースという超優名な球団の価値が株価に反映されていないので、株価は充分に余裕があると村上ファンドは判断、2005年9月に阪神電鉄の株式取得
を開始しました。
そのため2005年8月まで450円前後でしかなかった阪神電鉄の株は9月頃から急激に上昇を始めましたが、阪神電鉄は、当時好調であった阪神タイガースの好成績の
ためと考え何ひとつ策を取らずに放置していました。
しかし、9月27日の村上ファンドの大量保有報告書により村上ファンドが阪神電鉄の筆頭株主になったことを阪神電鉄経営陣はようやく知ることになりましたが、
すでにその時には株価は1200円を超えてしまっていました。
翌2006年5月10日には、村上ファンドは阪神全株式の46.82%を取得し発言権を取得し様々な要求を始めるに至ってしまい、阪神電鉄は止む得ず2006年3月中旬に
阪急電車との経営統合を阪急電車に提案し、4月に基本合意し、阪急電車は阪神株式のTOBを行うことを発表する運びになりました。
村上ファンドは株主総会に向けた株主提案書を提出し、5月2日に開封された書簡で役員を派遣して経営に参入する意図を表明しましたがしかしながら、阪急HDは
阪神株式TOBを予定どおり5月20日-6月19日の1か月間行いました。
村上ファンドの証券取引法違反の疑いにより村上世彰代表が逮捕され、代表を辞任し、村上ファンドは阪神電鉄買収を断念せざるを得なくなっていまいました。
こうした経緯で、阪急阪神ホールディングスが誕生したのです。(何らかの巨大な力が働いたとしか考えられませんが・・・・・???)
阪急電車,阪急旅行,新阪急ホテル,阪急梅田,阪急不動産,阪急 高速 バス等々は小林一三が創業したグループ会社です。
小林 一三(こばやし いちぞう、1873年(明治6年)1月3日 - 1957年(昭和32年)1月25日)は阪急電鉄・阪急百貨店・阪急阪神グループの創業者。山梨県出身。
慶應義塾卒。阪急ブレーブス、宝塚歌劇団の創始者としても有名です。
阪急電車だけでなく「乗客は電車が創造する」という言葉で、阪急電車沿線の住宅地の開発・百貨店経営などを経営し、鉄道事業に沿線地域開発をセットにしその
相乗効果で莫大な利益を上げ、私鉄経営のビジネスモデルを作り上げた人です。
小林は箕面有馬電気鉄道が苦境の時、電鉄事業は有望性があると説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功し、同社の専務(実質的には代表者)となり、
阪急電車の線路を敷設する前に周辺の土地を安い価格で全て買収し、阪急電車が走り出し地価が上昇してから販売する施策をとりました。
まず阪急電車の開業した1910年、池田で当時珍しかった月賦方式による住宅分譲を開始し、同年11月には箕面に動物園、1911年には宝塚に新温泉も開きました。
また1920年(大正9年)には世界ではじめてのターミナル・デパートを発案し計画をすすめ、起点の阪急梅田にビルを建設し、1階に白木屋、2階に阪急直営食堂を
更に「阪急マーケット」2・3階に入れ、1929年(昭和4年)3月にはついに「阪急百貨店」という直営百貨店を新ターミナルビルの竣工に合わせ開店させています。
鉄道会社が直営で百貨店を持つ例は世界で最初の試みでしたが、小林は「便利な場所なら、暖簾が無くとも乗客は集まる」と豪語し、実際に大成功を収めました。
この施策は予想以上の高収益となり、全国私鉄による沿線開発ラッシュの原型となり、同様の方式で始められたのが西部鉄道・小田急電鉄・田園都市線等々です。
又箕面に動物園、宝塚に「宝塚新温泉」を開設、そして1914年(大正3年)には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊にヒントを得て宝塚歌劇団を創り、沿線を
阪急グループの聖地に発展させその、沿線開発で乗客の増加をはかり、次に神戸方面への路線開業を機に会社名を阪神急行電鉄と改称して、大阪・神戸間の輸送客
の増加に成功し現在の阪急を創り上げるもとになり1927年(昭和2年)に小林は社長に就任しましましたが、戦後は1951年まで公職追放を受け、解除後東宝の社長
となり、1957年(昭和32年)1月25日、池田市の自宅にて急性心臓性喘息で没しています。